ちょうど今、「やる気とは何か」を調べる気になったのは、それを調べると人生が豊かになるということを(過去の)経験から判断したためです。それをすると人生が豊かになると判断したために、まさに今、「やる気とは何か」を調べています。
あらゆる人間のあらゆる行動はおよそ自分で良いと判断していることです。だから「やる気」とは、思う・考える・食べる・寝るなど人の生活・活動そのものをあらわし、まさに今、この今の行動です。
やる気は、行動するその前にあるものではなく、その存在を前提しているものの頭にだけあるものであって、本質からして存在しないものです。
それではやる気とは何か、やる気の本質とは何か、また、やる気ということばの意味を本文にて解説していきます。
やる気にならないのはなぜか?
私たちが何かをやる気にならないのは、身体が疲れていることを除いては、「行動にはやる気が必要」と思い込んでいるからといえます。
「行動にはやる気が必要」と思い込んでいるなら、いつまでも行動に移ることはありません。なぜならやる気とは、ことばによる幻影であり、まさに今、やる気について考え行動していることだからです。
つまり「行動にはやる気が必要」と思い込んでいると、その「やる気」を出すよう頭のなかで「やる気」をつかうという行動をしているのです。それは自家撞着というものであり、行動のために行動しているので労力を徒に浪費しています。たとえるなら行動という歯車を回すには良いと判断したことをするだけなのに、わざわざ「やる気」という歯車を勝手につくって、かみ合わないにもかかわらず、歯車をぐるぐると徒に回すようなものです。
やる気はことばによる幻影であり、それを思うこと自体すでに行動ですから、やる気を存在すると思い込んではなりません。「やる気とは何か」を調べる〈気〉になったのは、それを調べると(何らかの形で)人生が豊かになるということを経験から判断したためです。(もっとも、本質的・根源的な次元でいうなら〈気〉というのは運命的なものなのです)
ともかく現実に行動するためには現実に行動するだけであり、やる気という手前勝手な空想物は必要ないのです。
やる気ということばについて
これこそもっとも重要なことであり、私たちの行動は思考に依存していて、思考はことばに依存しています。
行動が思考に依存しているというのは、口に入れるものが毒物でないことからわかります。また思考はことばに依存しているというのは、この文を(文法に従って)読めることからわかります。
このように行動・思考・ことばは密接に結びついており、したがって、行動を変えるには思考を、その思考を変えるにはことばを変える必要があるのです。
ことばは本来どのようにも名付けられます。やる気という語の〈気〉の字を〈キ〉ではなく〈ヤ〉と名付けることもできます。けれども〈気〉を〈キ〉と名付けたことにはわけがあり、それは〈キ〉ということばには生命感を連想される響きがあるからといえます。というのは中国語の拼音でも、木、喜、期、希、几、基、生など、木と生とを除いてはどれも〈キ〉に近い音で発せられ生命感を連想させるからです。
ことばにこもる本来的な力をうまく活用すれば、行動を根本的に変えることができましょう。だから「やる気」ということばの意味を「ひらがな」と「漢字」とに分けて詳しくみていきたいと思います。
やる気の〈気〉は、人の活動の源泉となるもの
ことばの意味を知るには、ことばの源泉に遡りその成り立ちをみることです。やる気の〈気〉の字を調べてみると、白川静『字通』に〈気〉の原字は〈氣〉とあります。
〈气〉は雲の気が空に流れその一方が垂れている形で、うんき、もとめる、いのるの意です。古く雲気を望んで(おそらく豊作を)祈ったとあります。〈米〉は禾の稲に穀実がついている形で、お米の意です。
それで気の意味は、客におくる食糧、食事のおくりもの、空気、いき、活動の源泉となるもの、元気、力、いきおい、人の心もち、などとされています。ふだんつかっている〈気〉ということばには生命の根源的な力のこもる意味があるとわかります。ここで私は〈気〉の意味をその奥ゆかしさを考えるために「活動の源泉となるもの」としてとらえることにします。
〈気〉という活動の源泉から水が迸る
人の「活動の源泉となるもの」は何か、それを語ることはできない。
こうして「やる気とは何か」を調べる気になり文を読んでいるのは、人の活動の源泉から水が迸り、そういう行動をする方向に水が流れたからといえます。この活動の源泉からの水は絶えず流れ出るもので、この流れ出る水を止めるのは生命の死です。ただ生命ができることは水の流れる行き先を、それぞれの判断で選ぶことだけです。
やる気の〈や〉は、「嫌(ぃや)」に通ずる
やる気ということばについてこうこまかく書いているわけは、そのことばをつかうこと自体行動を鈍くさせているのではないかと思われるからなのです。
で、やる気の〈や〉という仮名は、古く係助詞に用いられるもので、「古池や 蛙飛び込む 水の音」というようにその音の効果が文末まで響きわたるものです。たとえば〈も〉という係助詞を用いて「君も池に飛び込んだ」というなら、読み終えたあとで、君ではない者がその池に飛び込んださまを思い浮かべることになる。
それで〈や〉と発音するとき、私たちは「ぃや」と声に出しています。この「ぃや」という音は、まさしく「嫌」に通ずるもので、ほかのひらがなをみてみると納得できるように思います。たとえば「病む・ぃやむ(嫌になる)」、「矢を射る・ぃやを射る」、「やもめ暮らし・ぃやもめて暮らす」、「いわんや〜をや・ましてや〜をいうまでもない」など。
何かに首をふることに「いや」といいますが、首をふることを「いや」ということばではなく、「うん」とか「よし」ということばで表すこともできます。気は〈ヤ〉という名でもよいが、気にふさわしい〈キ〉という名がある。「いや」というのは、断るときの否定的なようすをあらわすのに(音声学的に)もっとも適することばなのかもしれません。だから「やる気」というと、その音の効果が〈気〉すなわち「活動の源泉となるもの」に響きわたり、その行動に不の感情をくっつけて、無意識的にも行動力を低下させていると考えられるのです。
〈やる〉は〈する〉の代わり
そもそも「やる」は「する」の代わりのもので、近代以降に用いられることば(※1)です。近代以前に「やる」が用いられていないわけは、近代以前・以降を自我解放(自由)の時代として区別するなら納得できるかもしれません。つまり、行動に密接に影響していることばを改造し、人の気力を妨げねばならぬ理由があったのではないかと。
日本では、漢字を輸入するまではひらがなをつかっていたわけです。だからその時代にはひらがなのことばの響きに今よりも敏感であったでしょう。たとえば万葉集において、柿本朝臣人麻呂が妻子に別れる場面を歌ったものに(一巻131首)、〈いや遠に、いや高に…….〉と「や」を連発し、文末に〈靡けこの山〉といって悲痛を叫ぶ歌があります。これは「や」の響きを意識しているようにしか思われない。
そのほかにも「つかいに遣る」というときには寂しさを表していますし、「忘れられぬやも」というのも単に愛しい女を忘れられぬというだけで万葉集という古典が後世に伝わる価値をもつことはないでしょう。忘れられぬことが頭にまとわりついて嫌という自然的感覚を考えるなら、詩という芸術として察せられるでしょう。
「やる気」ではなく「する気」ということ
「やる気」というと、あらゆる行動に不の感情を結びつけることになるかもしれません。行動は思考に依存していて、そしてその思考はことばに依存しています。
やる気というなら、それをする前から不の感情を結びつけてしまうようなので、そこに向かって流れる気の勢いを弱めてしまうことになるでしょう。
だから「やる気」というよりも「する気」ということ。あるいは、そもそも「やる気」であれ「する気」であれ、こういう〈気〉を頭のなかで考えてしまうと、現実に外に向かうのではなく、頭のなかで内に向かって思う・考えるなどの行動をすることになるので、気を存在すると思うなかれ。現実に行動するには現実に行動するだけであり、自分が良いとする判断に従って行動するだけです。
※1「―方」という形式にみられる「する」と「やる」の差異について 国立国語研究所
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