朝に無気力となるのは生きがいをもっていないからでしょうか。起きて間もない朝ごろは魂を抜かれたような感じで、頭はからっぽで、何事もやる気にならず、死にたいと思うほどです。昼にちかづくにつれようよう気力が出てきます。それはうれしいのですが、どうも朝の無気力にはやりきれません。この苦しみを死ぬまで味わうことを思うと、ため息ばかりでて、気力はいっそう衰えてしまいます。いったいどうすればいいのでしょうか?
朝の無気力その原因は何か?
朝の無気力について、考えられる原因はいくつかあります。それをあげると、睡眠の質、部屋の空気、仕事や勉強の疲れ、生きがいの有無、などです。このうち朝の無気力にもっとも大きく関わることは生きがいの有無です。というのも、いくら睡眠の質や部屋の空気をよくして疲れをとりのぞいても、朝の無気力という禍に悩まされるからです。
生きがいの有無に比べれば、睡眠の質、部屋の空気、仕事や勉強の疲れなどは、とるにたらないことでしょう。朝の無気力、そのもっとも大きな原因は「生きがいをもっていないから」です。
朝の無気力を生きがいをもって改める
「生きがいをもつ」というと大げさに響くかもしれません。生きがいではなく目標でもよさそうですが、目標にたどり着いたときにはさらに新たな目標を見つけなければなりません。試験の合格を目標としていれば、合格したあかつきには朝の無気力がまっていることでしょう。
どうして生きがいをもてるか?
かくいう私は、生きがいをもっていないから朝に無気力になるのでしょうか。「生きがい」といってよければ、私の生きがいとは、モチベーション・マネジメントという、社会に蔓延る無気力という病原菌を撲滅し、社会を総じてより活き生きとする、一つの思想体系を生むことです。
「なぜ生きるのか?」という問いはかわいいもので、「なぜ生きていいのか?」という問いこそが、私たちが生きがいをもつ方法となるでしょう。
生きがいをもつのは死を忘れるため
生きがいをもつのは死を忘れるためです。そして朝に無気力になるのは、生きがいをもたない人が(朝には)死に間近な距離にいるからかもしれません。
朝起きてから人の隣には死がいあわせています。生という昼に歩いて行かなければ、死という夜に追いつかれ呑み込まれ、しかしただ私たちを死に至らしめることは肉体の死です。だから朝、生きがいをもたず昼に歩いて行かなければ、夜にさまよい存在しながら魂を抜かれてしまう。
その死から逃れても、生のその先には死があります。どちらも死ですが、人として生きることは、肉体と魂とをあわせ、美しく花散るかのように生きることです。
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