ものに感じて悲しむを感傷といいます。自分事のように他人の苦境に共感できる人は、優しく、暖かく、人間味のある人です。また、それを感傷癖のある人といいます。
ふつう癖とは好ましい傾向性をいうものではなく、だから感傷癖というと、その癖を正せというようになおすものと推測できます。
他人の苦境に共感できる感傷癖をなおせとは、悪魔のささやきでしょうか。けれども、人の存在が悪魔であるならば、感傷の癖をなおさざるを得ないかもしれません。
感傷癖の具体例
先に記したとおり、ものに感じて悲しむを感傷といいます。そもそも悲しむとは、何か期待を裏切られたときに起こる心の痛みです。だから店の人に「ありがとうございます」といわれず悲しんだりムッとしたりするのは、感謝のことばを期待していたことになります。いわゆる苦情の表明者は、その店のサービスに期待をしている隠れた良客です。
友だちに悪口をいわれ、それに心痛めるのも感傷です。友だちが悪口をいわないという関係を前提にして(そういう関係を手前勝手に期待して)つき合いをしています。
然るに感傷癖をなおす思考法とは、人に何かを期待することをやめることです。かれに好かれたい、認められたいなどと期待をしないなら、そもそも傷つくことはありません。人に期待することをやめるには、人とは根本的に自己中心的であり冷血な悪魔のような存在であると認識することです。この認識の目をもつことで、それだけ人に期待することはなくなり、感傷的になりにくくなり、自分の弱さを感情にあらわさなくなります。
感傷は自分の弱さのあらわれ
他人の苦境に共感する人はいったい何を期待していたのでしょうか。自分と他人とは全くの別人です。他人の悲しみを自分の悲しみとして何を得んとするのか。おそらく共感することが優しく、温かく、人間味のあることだと教育されたので、それに無条件にしたがっているのでしょう。けれども、人が悪魔のような存在であるなら、その他人の苦境にどれだけ共感しても見返りはありません。
自分が悲しめば悲しむだけ、つまり感傷的になればなるほど、自分の弱さを曝け出すことになり、他人に喜びを与えることになります。それというのも、人の弱みを握るときほど、私たちは水を得た魚のようで得意な気分になるからです。だから感傷癖をなおさなければ、それだけ自分が損をすることになるのです。
惻隠の心からの感傷
人間の本性は他人の苦境を見過ごすことができない、と孟子はいいます。つまるところ自分と他人とが全く別人であろうと、他人が悪魔のようであろうと、他人が苦境にあるときは、心の内奥のその最も奥底から、憐憫の情ではない惻隠の心が動くのです。
自他の間にはっきりとした境界線を引いてなお感傷するなら、それは惻隠の心です。まだその境界をはっきりと認識していないなら、感傷の癖をなおさざるべからず。
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