《欠乏ならびに苦痛は、ものを持たないということから直接に、かつ必然的に生じるのではなくて、ものを持ちたいという気持ちがありながら、しかも持っていないという状態からはじめて生じるのであって、したがってこの持ちたいという気持ちこそ、持っていない状態を欠乏と感じさせるのであり、これこそ苦痛を生み出させる唯一の必然的な条件なのである。》
ショウペンハウアー『意志と表象としての世界』
隣の芝生は青いもの。貧者が富者の生活に憧れるように、富者もまた貧者の生活を羨むのかもしれません。というのも生まれながらに恵まれた生活を送っている富者は、その生活に甘んじて育つことになるからです。これをいいかえると、富者は過酷な自然の環境に恵まれることはなかった。たとえ嵐が襲来したとしても、富者の城は不動であり、彼らは城のなかで裕福に暮らしながら嵐をみつめている。これに対して貧者の家屋は嵐に巻き込まれ今にも倒壊し木っ端みじんになるかもしない。生の緊迫した恐怖にさらされながら貧者は吹き荒ぶ嵐に立ち向かう。いったい、人間として、生物として、どちらが魅力的でありましょう、魅力的な人間に育つことになりましょう?
誰もが知にアクセスできる現代では、むしろ過酷な環境を身体で知ることができる貧者のほうが恵まれているかもしれません。もちろん富者の幼少期からの高度な教育や生活環境は、貧者のそれとは天地の隔たりがあるでしょう。しかし双方の住まう世界が誰もが脱出に向かう迷路であることを思うなら、自然の環境にうまく適合しながら生きる力の方がはるかに重要であり、身につけるべき力であり、恵まれた環境であるのです。
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