歴史は事件を動機づけの法則に従って導く限りにおいて実用的である。動機づけの法則とは、意志が認識によって照らされている場面において、この現象する意志を規定していく法則のことである。
ショウペンハウアー著『意志と表象としての世界II』第三十六節
私たちが何かをする気になるのは、概ねそれをすることが経験から良いと判っているからです。けれどもこの世の中には色々な誘惑がありますので、たとえ勉強をするのが良いと判っていたとしても、それとは別のことをするのが良いと判断し行動することもあります。その行動の後に後悔すると「誘惑に負ける」ことになります。
その誘惑に負けるまいとして色々な誘惑を無視し目標に向かうよう自分自身を説得すること、一つの目標に向かって自分自身を行動に駆り立てることを「動機づけ」といいます。
動機という語の〈機〉という字は「はたらき」の意であり、車や電話などの機械の動くしくみをいいます。ボタンを押すと機械が動くように、私たちの人生もまた一つの契機によって変わるものです。しかしそれもまた自然のしくみかもしれません。
動機づけの本質
ここで「動機づけとは何か」という根本的な本題に参りましょう。私たちが何かをする気になるのは、概ねそれをすることが経験から良いと判っているからです。が、もっと根本的に本質的に〈概ね〉という語を取り去って、なぜ何かをする気になりたいのか。つまり勉強や仕事などに対する意欲の動機をつけるこの私とは何か?
これを考えると、現実的な面においては身の破滅を恐れるあまり私が自分自身を動機づけるということになります。また、その本質的な面では、私ではない何かが「私」という空蝉をーー「私」という自然の被造物をーー勉強や仕事などをする気にさせ、動機づけるよう動かすことになります。
この「私」を動かす私でない何かを意志といいます。
動機づけをする意味はない
意志は、私たちにあるものではなく、世界に一つであるだけのものです。ただ人間といわれる「私」は高度な認識能力をもっている(もつ必要が出てきた)ために、自然の意志から独立して「私」が意志をもっているかのような錯覚を起こしている。
つまり「私」というのが自然の意志によって動かされる自然の被造物であることを考えるなら、その「私」があれやこれや動機づけをしても意味がないということです。
動機はただ意志に関係することによってのみ意義をもつのであるが、他の事物に対する相互関係はまったくどうでもよいことなのである。
ショウペンハウアー著『意志と表象としての世界II』
私の言動の一切万事は自然であって一つの意志から出来するとすれば、冒頭の引用文の《歴史は事件を動機づけの法則に従って導く限りにおいて実用的である》も理解されましょう。
直観に従うことが目標に至る正道
だから「私」は一切を直観に従うことによって、「私」の言動の一切は自然になり、自然と「私」とは一体化し、自然が「私」をして一つの目標に向かわせるようになる。
かくて目標に至るもっともな捷径は、自然に身をゆだね自然に身が振る舞うということなのです。
目標に向かうために動機をつける必要がないことを認識するなら、それでもうすでに目標に至っているということができます。
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