神経がとがり、気がおちつかず、じりじりすることをイライラといいます。現実が自分の思惑からはずれると、その違和感から気が動転し、興奮し、荒ぶって、その気を静めるために、イライラします。だから実のところイライラとは、体の傷が修愎されるようなもので、心の健全な状態をあらわすものです。これを悪しき方向にさえ発奮しなければ、イライラを力に変える、どのような現実をもうまく処理できる良き知恵を得ることができましょう!
イライラするのは思いどおりにならないから
先に記したように、現実が自分の思いどおりにならないと、イライラします。けれども人生は思うままにはならず、人間は不自由です。
SNSにおいて、「ねぇ」と呼びかけた相手からしばらく経っても返事が来ないと、相手に焦らされているようで、徐々に嫌気がふくらみ、イライラします。また、日常生活において、自分が当然だと思っている慣習を相手に蔑ろにされると、そのことに気がしばらく集中し、自由の時間を失っていることに気がつき、イライラします。
人生は、実にさまざまな出来事が勃発するものです。それをいかにしてうまく処理できるかが人生の醍醐味で、イライラを力に変える思考法です。
イライラは自己成長の障碍である
生き物の本質は運動することであり、止まっていることができない。生き物は別の生き物とぶつかり合いながら生きており、それゆえにすべての生き物は運動をさまたげる障碍(礙)です。
それぞれの生き物にはそれぞれの思惑があります。現実がその思惑からはずれると、つまり自分が常識だと思っていることを蔑ろにされると、イライラします。ここにこそイライラを力に変える、自己成長の養分を見つけることができるのです。
つまるところイライラとは、自分の知らない世界について理解を拡める、現実を拡張する、自己成長のチャンスです。そしてまた、イライラとは、現実が自分の思惑からはずれ、それによって起こる荒ぶる気を静めるための心の健全性をあらわすものです。イライラを自己成長の養分のようにとらえることができるなら、人生の常に反することでしか感動を生み出せないこの世のなかで、立派に成長することができるといえます。
※備考欄
障礙の礙は、声符は疑。疑は顧みて立ちどまり、凝止する形。『説文』に「止むるなり」とあり、石などにさえぎられて、進みえないことをいう。碍はその俗字。
広は、旧字は廣に作り黄声。黄に横の意がある。『説文』に「殿の大屋なり」とあり、四壁のない建物をいう。引伸して広大の意となる。連語の修飾語に用いることが多い。拡は、広の動詞形の字。
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