人生の底、絶望に陥っていなければ「生きるのがめんどくさい」と思うようにはなりません。だから今「生きるのがめんどくさい」と思うような人は人生の底、絶望に陥っているのかもしれません。
ふつう、絶望に陥っているようなら、生きるよりも死を選ぶ方がよっぽど楽です。それでも今、死ではなく、生きる方を選ぶのはこの世に未練があるからにほかなりません。
「生きるのがめんどくさい」という人類究極の問題を本文で軽く考えてみていきます。
「生きるのがめんどくさい」と思うときは、孤独でいるとき
これは私の経験にすぎないけれども、「生きるのがめんどくさい」と思うようなときは、たいてい孤独でいるときです。そもそも孤独でいなければ、そうは思わないでしょう。そして、だれもが孤独でいるときは、朝起きるときと夜寝るときです。ことに朝、目が覚めてから「また今日がはじまるのか」というきもちで起きると、生きることに「めんどくさい」と思うようになります。そのほか、孤独で家にじっと引きこもっているときにも「生きるのがめんどくさい」と思うようになるでしょう。
めんどくさいの本質
そもそも「めんどくさい」とは何か、その定義をあげるなら、めんどくさいとは「設定された行動規範に反したいが反せないでいる、その矛盾の状態における苦しみの感情」をいいます。
設定された行動規範とは「生きること」です。「生きること」に反したいが反せないでいる、つまり心は死ではなく生きることを望んでいるわけです。だから幸いなことに人生の底の絶望には陥っていない。この世に何かやり残したことがある、未練があるのです。だからめんどくさいの本質とは実はそれ(生きること)に従いたいということなのです。生きるのがめんどくさいと思っている人は、まずそれ(どういう未練があるのか)を探さなくてはなりません。話はそこからはじまります。
目的があるならめんどくさいと思わなくなる
生きものの本質はそれぞれのリズムで動くことです。犬も猫も、それから星もそれぞれのリズムで今も動いています。人のリズムはみずからが目的をもって動くことで、なぜならみずからが目的をもてるのは人の特権だからで、目的をもつなら、犬や猫がそういうふうにならないように、人は何事にもめんどくさいと思わなくなります。だから朝起きてから「また今日がはじまる」と思うことはなく、「今日を全うしよう」と思うようになります。
しかし問題は、「生きることがめんどくさい」と思う人は、そもそも「目的をもつことがめんどくさい」と思うだろうということです。
人と会話すると「生きるのがめんどくさい」と思わなくなる
目的をもつなら何事にもめんどくさいと思わなくなります。しかしすでに目的をもつことにめんどくさいと思うなら、いったいどうするか?孤独から逃げ、人と会話することです。たとえどれほど他人を嫌いであっても、私たち人は人とつながることが根本から好きです。それに直接快感を覚えます。それはなぜかといって、なぜ人は生きるのかということと同じで〈ことはそうなっている〉から、それ以上の説明を施せません。とにかく孤独から逃げ人と会話すると、生きることがめんどくさいと思うこともそう思う暇もなくなります。
まともに死を考えたことがある人は、よく生きることができる
いっそのこと死んでしまいたいと思う人は大勢いるでしょうが、そのなかでもまともに死を考えたことがある人はごく少数のように思います。なぜならいつの時代も死を考えることができる特権は、人生の底に陥った人だけに与えられるからです。人生の底に陥り、死を考えることによって、人はよく生きることができます。光の見えぬ暗闇のなか独り苦しみに耐えることになるでしょうが、ここで前よりも美しく世界を築き直し、新しく生命の歩みを始めるのです。それこそがこの世に息をしているのではなく生きることになり、本当の人生を歩むことになるのではないでしょうか。
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